デジタルデバイドが孤独を呼ぶ?

さて、書くまいと思っていた秋葉原事件
とは言え、犯人が同世代だったことなどで82年世代への言及が多くなってきているので、82年世代として言いたいことが出てきた。

我々82年世代はなんだったのかと問われると、『なんかねー、「あ、人生始まった」って時期に限って、何かが終わっていくの。冷戦も、バブルも、冷戦後の短い平和も、いろんな文化も。』と言う向きもある。
が、実際何も出来なかった世代なのかというとそうでもない気がする。

  • バブルの恩恵を受けて、幼少時代に多少はいい思いをした。
  • ベルリンの壁崩壊・冷戦の崩壊の本質を理解できないまでも、生の映像を見ることも出来た。
  • ゲームの発展期、FC→SFC→PS→PS2と全て体験することも出来た。さらに、アーケードゲームが好きな自分の場合は、アーケードゲームの黄金期→最盛期を体感することも出来た。
  • 携帯端末という意味でも、(極一部の恵まれた層はポケベルから)→PHS→携帯と移ってきたし、ウォークマン→CDプレーヤ→MDプレーヤ→MP3プレーヤと携帯音楽プレーヤも移ってきた。
  • 少年期の終わり頃には、パソコン通信やインターネットの成長を体験し、自由なコミュニケーションの楽しさにも触れることも出来た。
  • 今のゆとり(笑)層とは違って、PCでのコミュニケーションを先に体験しているから、携帯で限られた情報源にしかアクセスできないと言うこともない。
  • そして、精神的に成熟してきた頃に、911による従来型の世界構造の崩壊という世界の転換期にも立ち会うことが出来た。

結果的に、他の世代より情報的には恵まれた経験をして、世代の中でデジタルデバイドの起こりにくく多様性を秘めている世代ではないかと思う。
とは言え、これは情報的に恵まれた環境にあったからこそ成し遂げられたことだったと思う。
今回の犯人の場合、青森出身で情報弱者になりやすい環境で、このような体験が出来なかったというのが一つのポイントだとも思える。
高校卒業後も、自動車関連短大、運送会社、派遣での工場勤務など、携帯でのアクセスが中心になりやすい環境にいたし、最終的に犯行予告をしたのも携帯掲示板サイトだった。
コミュニケーションする相手が少ない中、数少ない後輩の結婚などで自分と同じ場所にいると思える人間が彼の中で居なくなってしまったのだろう。掲示板での孤独の嘆きっぷりからも、それが読み取れる気がする。
携帯サイトでは、孤独は救えない。
これでは、内向きなコミュニケーションになりやすいし、多量な情報に触れることは出来ない。世界の多様性を理解出来ないまま、自分の不遇を嘆くだけになってしまう可能性は高い。
世界はもっと広いはずなのに。
それが見えないまま人生を嘆き、犯罪に走ってしまうと言うのは非常に悲しい。
この点に関しては、環境が悪かったとしか言うしかない。
とは言え、環境が悪かったからと言って犯罪が許されるわけでもない。罪は償うべきだ。


これから、どうすれば改善できるのかと言うと、若者へのネット規制なんてアホな事を言ってないであらゆる情報へのアクセスを容易にするしかない。そして、メディアリテラシーを重点的に教育することが一番重要だと思う。
メディアリテラシーというと、日本の場合『〜してはいけません』という個別の禁止をしていくという形でしか教育の現場で話されないことが多く、情報技術を教える一環で行われるケースが多い。が、それだけでは足りない。全体のアウトラインとして『生活する上で一般的な話を語る上で』のメディアリテラシーが必要だし、様々な分野においての個別なメディアリテラシーも必要だ。
欧米ではディスカッションの授業が盛んだと言うことはよく日本の教育批判で言われるけれど、ディスカッションによって何を得ているかということについてはあまり言及されていない。ディスカッションをすることで、メディアリテラシーを得ているという側面の重要性が理解されていない気もする。